功利主義者があえて価値を認める、マイケル・サンデルの共同体主義

マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』最初に読んだときは、功利主義とリバタニアリズムの説明がしっくりきた。

自分は「お金にしか興味がない」と思っていたが、本書によるとこういう一元的な共通通貨で物事を評価する傾向は功利主義に分類されるらしい。また、「どんな働き方や生き方を選ぶかは本人の自由だ」と考えていたが、これは自由至上主義というリバタニアンの考え方らしい。

それに比べると、実は後半のカントとロールズ、マイケル・サンデル自身の主張はピンとこなかった。単に「流行の思想に同調したくない」という天邪鬼な性格のせいかと思ったが、特にジョン・ロールズの格差原理には生理的な嫌悪感すら覚える。何度か読み返して、ようやくこの違和感の原因がわかってきた。

ロールズの発想はいまだに認めがたいが、サンデルの共同体主義をロールズの批判としてとらえ直すと、意外といいところが見えてくる。特に「正義」本で紹介されるアリストテレスの思想を仲介すると著者の意図するところがわかりやすい。

もちろんサンデルは功利主義も批判しているのだが、「敵の敵は味方」という妙な連帯感すら覚えてくる。

共同体主義の意義

サンデルが取り上げている政治哲学思想は、以下の3つだ。

  1. 功利主義:ベンサム、ミル、幸福の最大化が正義
  2. リバタニアン・平等主義:カント、ロールズ、個人の自由と権利を尊重するのが正義
  3. 共同体主義:アリストテレス、サンデル、連帯と忠誠の責務にもどつく正義

2は1の否定である。著者はアリストテレスの目的論的道徳観に再び脚光を当てることによって、1と2の対立を発展的に解決しようとしているように見える。

サンデルは1・2の抽象的哲学議論で見落とされていた所与の条件(愛国心や宗教)が、実は道徳や政治の議論と切り離せないことを指摘する。その上で、異なる価値観を相互に尊重しながら、前向きに議論を続けようという姿勢を提案する。

正直なところ、著者の掲げるコミュニタリアニズムには、ベンサムの効用論やカントの純粋実践理性のようにスカッとした論理的明快さがない。連帯や責務の議論は重苦しいし、相互的尊敬という理念は生ぬるく感じる。

しかし、その煮え切らなさこそが共同体主義の特徴で、歴史的に議論されてきた「中立的な正義」という理想自体を否定しているのだ。「政教分離」というどの陣営も疑わないような原則にも、あえて踏み込もうとしている。いわく「キング牧師の公民権運動やベトナム戦争への反対運動には、道徳的・宗教的言説が援用された」という理由だ。

マイケル・サンデルの試論

コミュニタリアニズムの思想を具体的な政策に結びつける方法は、サンデル自身が「まだ満足のいく答えが出せない」と終章で告白している。あくまで試論として提案されているのは以下の4つのアイデアだ。

  1. 強制的な社会奉仕プログラム
  2. 社会的慣行(兵役、出産など)への市場原理導入の制限
  3. 税金を投じた公共サービスの再建、
  4. 政治に道徳理念を持ち込むのをいとわないこと

いずれも「個人の自由を国家が制限する」というニュアンスがあり、米国のリベラルとリバタリアンには真っ向から否定されそうだ。加えて、連帯・共同責任という観点から「歴史的不正への集団的謝罪と補償」も是とされているので、物議をかもすのは間違いない。

国家間の賠償問題は法的根拠のない交渉のようなものだから、強気で臨んだ方がいいだろう。欧米流のビジネス交渉としては、最初に過度な要求をふっかけてアンカリングするとか、いろいろなテクニックがある。もしサンデルの言う共同責任を真に受けて謝罪の姿勢を示したら、ゆすりたかりでケツの穴の毛までむしり取られると思う。

自分も最初は平等主義的な傾向が目について受け入れがたかったが、何度か読み返すとマイケル・サンデルの主張にも一理ある。すべての提案を受け入れることはできないが、少なくとも「所得の再分配ではなく公共投資に使われるなら増税もありでは」と考えが変わってきた。まさに著者が期待する、議論による歩み寄りといえるかもしれない。

功利主義が好ましい理由

本書を読んで気づいたのは、自分が功利主義やリバタリアニズムに賛同する気持ちも、決して中立的な立場から選んだわけではないということだ。その意味では拝金主義者もアラスデア・マッキンタイアの言う「目的論的な物語」から、道徳的特性を先天的に与えられているといえる

生まれてこの方、企業の正社員になったことがなく、自分の会社でしかまともに働いた経験がない。今もフリーランスでマイペースに暮らすのが性に合っていると思う。育った家庭環境や友人関係が影響したのかもしれない。きっとジェレミー・ベンサムの遺伝子が何パーセントか入っているのだろう。

自分は「最大多数の最大幸福」という価値観を「平等の原初状態」から選択したわけでなく、「効用」が名誉で規範である国家やコミュニティーで育ったから、それが好きなだけなのだ。定言命法で無条件に善とされる原則が、カントの場合「理性」、アリストテレスなら「善良な市民生活」、自分の場合は「幸福の最大化」なのだろう。

今となってはジョン・ロールズのように、無理して抽象的な立場や万人に対する公正さを追求する必要はないと思う。サンデル教授が言うように、保守派もリベラルもリバタリアンも、それぞれの主張をぶつけて議論する状況自体がポジティブといえる。

裁判になれば声が大きい派閥が勝利する。あるいは双方の主張を理解して知恵を絞れば、Win-Winな解決法が見つかるかもしれない。「公共の言説の貧困化」を招く政治的無関心よりは、時間やコストがかかっても論争する方がまだましという考え方だ。

アリストテレスはある意味正しい

フリーランスの自営業で独身という立場上、共同体主義の言説を受け入れることには葛藤がある(ベンサムの言葉を借りれば「効用」がない)。しかし、日本人という集団意識の強い民族性からすると、サンデルの共同体や物語という説明には直観的に納得できる部分もある。

特にアリストテレスの目的論的な正義の考え方は、不思議と腑に落ちるところが多い。「都市国家の目的と目標は善良な生活であり、社会生活の制度はそのための手段である」という言説が正しいとすると、solitaryなSNEPの考える最大幸福はどこかで頭打ちになるはずだ。

一人で格差だの自由だのと騒いでも、結局はリア充で善良な市民にはかなわない。社会的に孤立した人間は、ギリシャ時代ならさながら「生まれながらの奴隷」と蔑まされる身分だろうか。

ソクラテス的弁証法

著者が持論を未完成と認めるように、自分の感想も煮え切らない。ただ、サンデルが「奴隷制を擁護した」という誤謬からアリストテレスの思想を救い出したように、功利主義者やリバタリアンでありつつも、あえて本書のポジティブな意味を考えてみることはできる。

カントやロールズの思想には反感を覚えるが、実際には「なるほど」と思える洞察も一部あったりする。一つの思想に固執せずオープンに議論するスタンスを維持する、というのが実は共同体主義に適した考え方なのかもしれない。

自身のポリシーは揺るがないが、本書を読んで180度は言わずとも30度くらいは方向転換してもいいかなと思った。特定の政治哲学を推奨するというよりも、メタレベルの内省を促すような効果がこの「正義」本にはある。

サンデル教授が大学の講義というかたちで共同体思想を広めているのは、ソクラテスの弁証法的な問答法を意識しているのだろう。それぞれが無意識的に抱えている政治思想を、対話を介して浮き彫りにする「無知の知」といった醍醐味がある。

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

もやもやした読後感を残しつつも、何か頭が柔らかくなった感じがする、おもしろい本だった。